黒澤明監督が追及していたのはエンターテイメント性なのか、それともヒューマニズムなのか。

観る人の感性によって意見は分かれるところです。

この記事では、黒澤明監督が作り出す作品のエンターテイメント性、黒澤監督の世界観について考察します。

 

プロローグ「映画を語る」ということ

日頃から映画評論というものは非常に難しい、と考えています。

なぜなら、役者ではない、もしくは映画を撮ったことがない者達がその作品の真の醍醐味を人々に語って良い者なのだろうか、と思うからです。

役者ゆえの葛藤や苦悩、プレッシャーや、製作、撮影の苦労の経験がない者が、客観的な鑑賞後の一抹の陶酔のみで批評など書けるものなのでしょうか。

更に言うと、映画や演劇だけではなく一般的に点数で表せない音楽や芸術についても同様、それらの評価というものはとても曖昧だと感じます。

100人同じ映画を観れば100通りの感じ方があり、感情の共感はできても強要はできません。

つまり、その人が観た映画の印象はその人にとって全てであるのだから、別の人が語る評論、批判を100%鵜呑みにして良いものだろうか、と思うのです。

 

黒澤作品の真意と対する評価との隔たり

ある日、「黒澤監督はエンターテイメントというものをとことん追求した人だと思う」という某映画評論家のコメントを読んで、ある違和感を感じたことがありました。

このようなコメントは、実に一般的で差し障りない文言を感覚に任せて並べた、いかにも映画ファンのマジョリティ感覚に寄り添うものだと容易に想像できるもので、監督の真髄に迫ったものとは思えません。

1つ考えられるのは、この評論家は「七人の侍」や「用心棒」のような、代表作品の中でもテレビや黒澤特集と銘打つ番組で取り上げられる時代劇を念頭に置いて述べたのだろう、ということです。

なぜなら、現代をテーマにした作品群にはエンターテイメントを追求したものは私の見解では1つも見当たらないからです。

黒澤明監督が手がけた30本の全作品のうち、時代劇は「姿三四郎」や「赤ひげ」と言った準時代劇を含めても13本、あとの17本は現代の人間模様や社会問題を取り上げた作品です。

この時代的背景の区分けで作品を二分したとしても、実は黒澤監督自身のテーマに対する独自の見解やメッセージは一貫共通しています。

ただし、それらには件の評論家が述べる「エンターテイメント性を追求した」様子は見えません。

1959年、東宝の後押しによって自身のプロダクションを立ち上げた黒澤監督は、第1作目から娯楽作品は避け、現代の社会背景をテーマにした「悪い奴ほどよく眠る」を製作しました。

しかし残念ながら、この作品は興行的にも当時の世間の評価においても決して大成功とは言えない結果に終わりました。

その後、黒澤プロダクションの第2作目「用心棒」が公開されると第1作目と反して成功を遂げることとなります。

「用心棒」の成功に続き、再び時代劇である「椿三十郎」を発表しました。

さて、この2作の時代劇は一見、それぞれ独立しているように見えますが、実は黒澤監督独自の経験と目線によるアイロニーが隠れている、という共通点があります。

相争う2つの組織の壊滅を描いた「用心棒」では、かつて東宝の争議に巻き込まれた経験から争う双方の愚かさを描きました。

そして、古い慣習と汚職を憂いだ若侍たちが世直しに立ち上がる姿を現した「椿三十郎」には、独自の思想が先走り攻略乏しい学生運動の若者の姿がシンクロします。

その後エド・マクベインの小説に触発され、貧乏な若者の富裕層への嫉妬を描いた「天国と地獄」は、封切りされると身代金目当ての誘拐事件が巷に相次ぐキッカケとなりました。

このように黒澤明作品を語る際、監督が魅せられた題材はほぼ現代社会における矛盾やアンフェアを投影したものである、と言っても過言ではないでしょう。

よって、ここまで社会に渦巻く負の背景や人間模様の真髄を描くには、娯楽映画という枠に嵌め、エンターテイメント性を重要視していたとしたら到底不可能だったのではないか、と考えられます。

しかし、黒澤監督の世界観は、その強い影響力を持っても常に解釈における周囲の悪意なき誤解が付いて回ることとなります。

例えば、クリント・イーストウッド主演「名無しの男」の評価の裏にはモチーフとされた黒沢監督の「用心棒」が取り沙汰されます。

が、作品の模倣、という面ではリスペクトも感じられますが、必ずしも黒澤監督が大事にしていた奥に隠される芸術性や表現の意図までは描かれることはありませんでした。

それでも、このような黒澤監督を心酔する映画人達によって、黒澤作品の人気やカリスマ性が深まることとなったのです。

 

 独自思想にとらわれない黒澤映画の柔軟性と世界観

 

監督黒澤明を熱く語る映画人は世界中膨大に存在します。

しかし、国内においてその評価が二分する作品や解釈が難しいテーマに観客が遠のくという現実を目の当たりにしたのはまさしく黒澤監督ご自身であったのではないかと考えます。

なぜならば、1960年代当時にはありえない大胆不敵な技法や斬新な表現、伴う膨大な制作費においても、監督没後20年を数える現代においてはどれも当たり前なものになってしまっているからです。

さらに、監督が起用した優れたスタッフや役者達が、監督逝去前にこの世を去ってしまっていることも起因していると言えるでしょう。

代表的俳優三船敏郎さん、志村喬さん、脚本家井手雅人さん、作曲家武満徹さん、そして片腕となる助監督の加藤泰さんと森谷司郎さんなど、彼らの早すぎる逝去は、黒澤作品を後世に伝える存在を失うこととなりました。

またそれぞれに功績高い彼らの存在意義と価値は、まさに日本の宝とも言え、もし現在もご存命であったのなら黒澤作品をより世に知らしめるはずではなかったか、もし黒澤監督晩年作まで製作において彼らの助力があったならば、と思わずにはいられません。

それゆえに、名前は知っているけれど、作品を観たことがない、興味がない、という日本人が多いのが現実です。

そそれとは真逆に、世界のその沸騰ぶりは眼を見張るものがあり、海外の評判によって作品を観始めた、という人も少なくありません。

世界で評価が高い理由の1つに、監督の表現における探究心の強さがあります。

前述の「エンターテイメントを追求した」という評価を言い換えれば、「黒澤明監督はストーリーに内在するテーマの表現方法を追い求め、より人を核心へと惹きつけるために惜しみなく情熱を注いだ」と言うことではないでしょうか。

この妥協のない追求こそが多くの人々が黒澤明監督を「映画の神」に称するゆえんではないでしょうか。

黒澤監督は、ある惹かれる物語や題材に出会った時、それらを表現する最善の技法を考案し実践を試みました。

そして、それらの技法は見事に適確かつ「黒澤オリジナル」として発揮されました。

例を挙げるとすれば、そのテーマに注目が注がれた「生きる」は、自分の死期を悟った凡庸な1人の男性の、ささやかな偉業に「生きる」意義を見る作品でした。

この作品の核心は、単なる死ぬまで身の丈に合った仕事を続けなさい、というつまらないお説教にとどまりませんでした。

また、劇中に描き出される官僚気質の職場や社会、周囲に流される上司や同僚、無機質な家族の批判だけではありません。

それらはあくまでも主人公が成し遂げた「最期の仕事」に向かうプロセスの舞台装置のように主要部分に寄り添うものでした。

これらの「舞台装置」がより、主人公の偉業を浮き立たせ人の心に残す効果をもたらしました。

主人公が去り、残されたもの達が語り伝える技法は、国内外の有名映画作品では定番です。

しかし、ショッキングなまでに表現が活かされたのは、黒澤監督の正確な物語と技法の選択のマッチングではないでしょうか。

さらに、黒澤監督は場面の多面性の重要を知る人物でした。

複数の脚本家の視線を借りてシナリオを作ることでそれは果たされました。

しかしなおかつ監督の強い世界観は揺らぐことなくオリジナルを保ち人々を魅了しました。

次から次へと、異なったテーマをそれぞれにマッチした手法で映画に仕立てる黒澤映画。

一貫したイデオロギーや思想を押し通す映画監督達にはない柔軟性を見せつつも、この世の「強いものと弱いものとの共生」と言うテーマにはこだわりがありました。

ある意味、食うか食われるかの世界を描くことで、男社会がメインイメージと思われがちとなり、女性層にはなかなか理解してもらえない反面も確かに否めません。

しかし、それに共感できる人々にとってはこの上ない魅力を持った作人の数々ではなかったか、と感じます。

それゆえに黒澤映画はエンターテイメントにとどまらない美学とユーモアを感じ取ることができると言えるのでしょう。

また、評価の二分や誤った批評や解釈も、もしかすると人間を撮り続けた黒澤明監督にとっては周知の通りだったのかも知れない、とも思うのです。

 

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この記事を書いた人

名前:ドットTokyo

黒澤明監督の映画を観て衝撃を受けたのは1980年代中盤のこと。
日本がバブル景気を迎える前夜の頃のことです。
良質な映画に巡り合っていないなぁと思う今日この頃です…